Aug.16, 2022 

私の 青春

 

 音楽の愉しみ

 

第69回兵庫県吹奏楽コンクールが姫路市と三田市で11日から行われる。小学生から中学、高校、大学、職場・一般までの沢山の団体が美しいハーモニーを披露するが、そのスケジュールの12日に兵庫県立伊丹高等学校もエントリーしている、それを見かけて懐かしい気持ちが湧いてきた。あれは私が16歳の時、1956年昭和31年、九州福岡の県立高校から転校して来て宝塚に住んだのでそこの校区の高校、県立伊丹高等学校に転入学した。そこで初めて楽器に触れた。クラリネットを買って貰って高校の吹奏楽部でブラスバンドに初めて触れてブラバン音楽に熱中した。その頃から音楽に興味を覚えた私は大学は同志社に進んで音楽美学を専攻オーケストラ部やマンドリンクラブのエキストラ部活で熱中した。更に大学を出て関西テレビに就職、オーディオ、音響効果班でテレビの芸能の世界に熱中、昼も夜も音楽に包まれた世界を過して来た。伊丹高校で初めて触れた吹奏楽が私の一生のスタートとなり、人生に限りない喜びをもたらしてくれた。できることなら伊丹高校の演奏をまた観れたらと新聞記事を見つめた。暑い夏の日、若者たちがまた私の後を追って進んで行くのだろうか。

 音楽の愉しみにハマった私は現役を退いた今、音楽漬けの日々を送っている。朝からNHKFMやアメリカのWCPEFM局のラジオ音楽が流れていない日はない。ラジオやネットで局から流れる音楽を聴きながら1日を過ごしている。テレビ局で育った私だが今ではラジオの音楽に身を包まれている。クラシックからモダンまで。

 


ナガサキ  77

 

 

 長崎・小さな 想い出

 

 77年前のあの日、8月9日、私も見た、あのナガサキ原爆のキノコ雲を。私は5歳足らずのガキ大将だった。親戚のおばさんの家の近くの畑で友達と茄子を捥いで食べていたその時、音はしないがくもり空にも関わらず大きなキノコ雲が西の空長崎の方向に湧いているのが見えた。今思うと疎開していた佐賀県の鹿島市から長崎までは西南の方向40キロ、それが原爆の雲だとは知る由もなかった。大きくなって戦争や疎開のことを思い出すとき遠い記憶の狭間に短い時の記憶から何より思い出されるのがこの雲だ。歴史的な悲劇の最中に畑で茄子を盗み食いしていた私たち、友達がその後で畑で野糞をしたとき脱腸だったのを知ったのが今も脳裏に焼き付いている。昭和15年、戦前生まれの私、この頃の思い出は数少ないがキノコ雲の想い出はいまだ消えない。

 1940年8月22日昭和15年に神戸市で生まれた私、弟の正徳が西宮市で昭和18年に生まれたがその2年前の昭和16年12月1941年に太平洋戦争が始まった。昭和19年父の故郷の佐賀県鹿島市に疎開した私が見た長崎の原爆雲はまだ幼い5歳の夏で終戦の年昭和20年1945年8月15日、終戦の日8月15日の1週間前のこと出来事だった。その翌年の4月に学齢を迎えた私は混乱の中、鹿島市の小学校の入学式を済ませてすぐ福岡市へ引っ越ししてそこでまた4月の小学校入学式を簀子小学校で挙げた。戦後の21年1946年に三男桂一が佐賀県鹿島市で、そして24年1949年に四男の末弟光司が福岡市で誕生、池田の4兄弟が揃った。弟光司までの年齢はそれぞれ3歳開く男4兄弟で、光司までの年齢差は私の9歳下で奇しくも光司が生まれたのは1949年8月22日で丸々9歳年下の弟である。その兄妹も二人が今は無く、弘幸82歳光司73歳、光司と二人きりになった今年の終戦記念日だ。